2010-07-01から1ヶ月間の記事一覧

以前1回触れましたが、維新の志士から大阪の経済界を作った人

みなさん、今日は少し違った観点から明治維新を迎えた人が、この鹿児島にもいた事を書こうと思います。 篤姫や西郷・大久保らと時は同じころ、幕末の激動期に最も早くから世界の進歩に目を向けていた薩摩人が居ました。五代友厚です。 1835年(天保6年…

海浜院跡を訪れて

海浜院とは、明治38年(1905年)医師・中江佐八郎が、結核の大家といわれた加藤好照と共同で、ここ鴨池に設立したサナトリウム(結核治療院)のことです。結核は、結核菌の感染でおこる慢性伝染病で肺臓をはじめ、体内の内臓が侵され、そのころ国民病と…

篤姫にも負けない、薩摩女性の鏡といわれた乃木静子

・・・・身を殺して仁をなす・・・・将軍の妻として、軍人の妻として・・・戦争にいく夫にお守り札を持たせようとしましたが、「ばかばかしい」と相手にされなかったので、密かに夫のズボンの縫い目にお守り札を縫いこんだという、微笑ましいエピソードが残…

鴨猟は薩摩から始まった?

江戸時代、現在の鹿児島市・鴨池に黒木屋敷という薩摩藩の屋敷があり、邸内には大池がありました。池の中には、鴨がおり、周りは土手や密集した竹等で囲まれ、外から直接見ることができないようになっていました。 冬になると、たくさんの鴨がやってきて、鴨…

示現流の祖、東郷拝領屋敷跡

薩摩独特な剣法、示現流は、東郷重位が京都で修行したものを基に、編み出したものです。そして慶長9年(1604年)に第18代島津家久の御前で、新しい剣法を披露し、その業は見ている人々を驚かせました。そのとき家久は、重位に薩摩の剣法の指南役をま…

安藤照誕生地を訪れて

彫刻家、安藤照は、1892年(明治25年)現在の鹿児島私立病院の北東の一角で生まれました。東京美術学校在学中に、帝国美術(帝展)に入選したのをはじめ、その後、「流れ」「芽生え」「踊りの構図」「大空へ」が、次々に特選になり、「大空へ」は第一…

郷中教育が日本を拓いた

「議を言うな」・・・・薩摩の青少年の間では、暗黙のうちに、このような取り決めがなされていました。「つべこべ小賢しい理屈を言わず、先輩の言うことには従え。」ということです。藩政時代、薩摩では、城下の武家の居住地をいくつかの区域に分けその区域…

篠原国幹誕生地を訪れて

若くして、伊地知正治、重野安繹等と共に造士館に学び、和漢学を修めました。戊辰の役では、薩摩三番小隊長として活躍しました。明治5年陸軍少佐となりましたが、明治6年征韓論に破れた西郷に従い官職を辞し、桐野利秋等と帰鹿しました。私学校設立と同時…

村田新八誕生地を訪れて

幼少時代から西郷を兄のように敬い、つかえました。 明治4年、岩倉具視一行と外遊しましたが、明治7年、帰国してみると、征韓論に敗れた西郷および郷党は帰鹿していました。大久保に引き止められましたが、「西郷さんの意見も聞かねば」と振り切り、帰鹿し…

鹿児島市吉田の庚申仁王像を訪れて

今回は、鹿児島市の吉野を通り過ぎた、吉田にやってきました。今では鹿児島市と合併しましたが、以前は鹿児島郡吉田町でした。有名な史跡になっている「庚申仁王石像」を見にやってきました。地図上に像の位置がわかると思いますが、その上の黒い太くなった…

島津・加治木氏、加治木護国神社由緒地

島津義弘がこの地を城地に選び、帖佐、平松から移り住んだのは、慶長12年(1607年)のことです。この城は高い石垣や天守閣を持たず、居形造りの建物群で構成されていました。空堀や城壁をめぐらし城域を区画し、家臣の屋敷を周辺に配置し、整然とした…

越前(重富)島津家墓地と紹隆寺を訪れて

以前、平松城を紹介しましたが、今日は重富家の重要な墓地などご覧ください。 越前島津家は、越前の国(現在の福井県)の守護代であった忠綱(ただつな)(島津家初代・忠久の次男)を祖とする鎌倉時代の名家でした。しかし、戦国時代(16世紀中頃)に第1…

指宿の地熱発電所

指宿市から国道226号線を車で20分ほど南下すると、長崎鼻パークガーデン、フラワーパークかごしまへの左折看板が見えてきます。標識に沿って左折すると、畑の中に何やら白煙を上げている白い工場の様な施設が遠望できます。 この施設は九州電力の「山川地熱…

007は鹿児島にも来ていた。

先日枕崎まであしをのばしたついでに、坊津(ぼうのつ)まで行ってまいりました。今では南さつま市に組み込まれてしまいましたが、鑑真和上が上陸された地としても有名ですが、映画007シリーズ5作目の「007は二度死ぬ」のロケ地でもあります。ジェームス・ボ…

「おとこたちのヤマト」ロケ地枕崎。

一昨日、枕崎にいってきました。仕事にかこつけて、本当の目的は「おとこたちのヤマト」のロケ地廻りだったのですが(笑)。 長渕剛が主題歌とエンディング曲を担当しており、特にエンディングに流れるclause your eyes という曲が好きで、この映画とセット…

南州公のかくれ湯。

太政官政府に見切りをつけ、薩摩に帰った西郷南州公は、鹿児島城下に隣接する武村(現在の鹿児島市武町。中央駅の裏の方)に質素な家を得て、狩猟三昧の日々を過ごします。全国から毎日のように訪れる、挙兵を促す不平士族達に会いたくないというのが本当の…

重富氏・島津久光も住んだ平松城跡を訪れて

戦国時代の天文23年(1554年)岩剣(いわつるぎ)合戦と呼ばれた島津氏と蒲生・祁答院方との激しい攻防は、岩剣城(右手の急俊な山)の落城によって終止符を打ちました。この合戦で初陣を飾った島津義弘は、岩剣城に在番することになりました。しかし…

島津歳久の眠る心岳寺跡(しんがくじ)を訪ねて

滝水山心岳寺(ろすいさんしんがくじ)は、島津家15代、島津貴久の三男・歳久を弔うために、曹洞宗福昌寺の末寺として、慶長4(1599年)、兄の第16代島津義久によって、歳久が自害した場所に創建された由緒ある古刹ででした。境内には、歳久とその…

近代化を進める薩摩藩、異彩放った洋館

−−−−洋式紡績所の英人技師7人の居館−−−− 「西洋の進んだ文化や技術を積極的に学ぶべし」薩英戦争の洗礼を受けた薩摩藩は、1865年(慶応元)国禁を侵して使節と留学生19人をイギリスに派遣しました。この時、引率した新納久修(ひさのぶ)・五代友厚ら…

戊辰の役・新しい時代の夜明けの為に(照國神社)

先程歩いて照國神社(鹿児島市街地・城山下)に行ってきました。島津斉彬公の像の側に戊辰の役戦士顕彰碑があります。同時に、斉彬死後活躍した国父、久光、薩摩藩主・忠義の像の写真も見てください。 戊辰の役とは、慶応4年(1868年)1月、京都鳥羽伏…

薩摩の財政を支えた、奄美諸島の人々

幕末、莫大な額に膨れあがった薩摩の借金を立て直した功労者として、調所広郷の名が残っています。彼がおこなった改革によって、薩摩藩は莫大な赤字を黒字にまで転換することに成功しました。たとえそれが大阪辺りの豪商を脅し、借金の返済を250年分割と認め…

来迎寺跡・墓塔群を訪れて

鹿児島市から国道3号線を北に進むと、市来というところがあります。 県指定文化財に指定されている、来迎寺跡墓塔群は、市来を古くから統治していた市来氏歴代の墓が建てられています。市来氏は惟宗姓(これむねせい)を持ち、後から地頭として赴任してきた…

下加治屋町郷中の元気坊・大山巌

今日は、下加治屋町に生まれた、大山巌(いわお)を紹介します。 「ナポレオン以来の戦略家」「ブルドッグの如き猛将」「人格はグランド将軍、戦略はリー、ジャンクソンの両将軍に伍する」日露戦争で満州軍総司令官として、奉天大会戦に勝利した大山巌元帥の…

戦国時代の港・春日大社を訪れて

−−琉球を攻めた薩摩水軍の軍港−− 関ヶ原に破れ、九州統一さらには北進の望みを断たれた島津氏は、対明貿易経営に意欲を見せ、横山久高を総大将・平田増宗を副将として、1609年(慶弔14年)船100余隻、兵3000人の大軍勢で、琉球を攻め、琉球国の…

ヤジロウの記念碑を訪れて

今日は、ザビエルを薩摩へ案内した、ヤジロウ(一説にはアンジロウについて語らせていただきます。 ヤジロウは薩摩藩出身の人で、ポルトガル商人の案内でマラッカで、宣教中のフランシスコ・ザビエルと出会い、ザビエルに日本宣教を決意させます。インドのゴ…

篤姫の育った今和泉家本家跡の石垣

篤姫は、天保6年(1835年)薩摩藩・島津家の分家である今和泉島津家10代忠剛の娘・一子(かつこ)として、鹿児島城下に生まれました。1853年、島津家28代藩主・島津斉彬の実子として島津本家に迎えられます。名は篤姫と改められ安政3年(18…

篤姫・島津今和泉家近くの砲術館跡

篤姫の育った本家の横、大龍寺前に当たるところに、第27代島津斉興が将来の重点課題とした「海防と武備」の中の洋式砲術の訓練所のあとがあります。 アメリカのモリソン号が山川沖に来航した1837年(天保8)を機に斉興は洋式砲術の採用をきめました。…