戦国時代の港・春日大社を訪れて

−−琉球を攻めた薩摩水軍の軍港−−
関ヶ原に破れ、九州統一さらには北進の望みを断たれた島津氏は、対明貿易経営に意欲を見せ、横山久高を総大将・平田増宗を副将として、1609年(慶弔14年)船100余隻、兵3000人の大軍勢で、琉球を攻め、琉球国の持つ対明貿易の権益を奪いました。
その時、薩摩水軍の軍港であったのが、この春日大社付近で、森有礼の誕生地の近くです。遠征軍は、現在の稲荷川河口近くの戸柱橋付近から乗船したと思われます。当時このあたりは海で、戦国時代(今から約500年前)に稲荷川河口に港が、築かれたことから、滑川(なめかわ)町あたりにかけて、相当大きな港町が生まれ、船手、船蔵(ドッグ)を中心に船頭や水夫、船大工が一団となって住んでいました。ところが、度重なる洪水のため、川底に大量の土砂が堆積し、大型の船の出入りが不自由になったため、港は甲突川河口に移されてしまいました。現在、軍港跡は埋め立てられており、鹿児島五社の一つで、奈良の春日大社を本社とする春日大社が建てられています。