2010-03-01から1ヶ月間の記事一覧

鹿児島の心霊スポット?

桐野利秋こと中村半次郎の生家跡からバス通りをさらに北へ行くと、「駄馬落の跡」と書かれた案内板が見えてきます。これは西郷さんが薩摩へ帰ってきた後、吉野台地から寺山の開墾に励んでいた時期がありました。ある日、いつもの様に馬に農具をのせて開墾場…

島津斉彬公の墓所はどこ?

普通、大概の城下町にはその地の歴代藩主の墓所が市内中心部にあり、観光名所の一つになっていたりするものですが、薩摩藩主島津家の墓がどこにあるか、鹿児島市民でさえ知らない人のほうが多いです。 鹿児島市立玉龍高等学校の裏手にあり、付近には駐車場等…

南州神社2

以前、旧庄内藩との話で取り上げた鹿児島市内にある南州神社について書き足りなかった事をいくつか補足させていただきます。隣接する南州墓地にはツアーで来られても必ずと言っていいほど定番の観光スポットです。西郷南州翁の墓を中心に、西南戦争で戦士し…

石橋記念公園と岩永三五郎像

鹿児島市の中心部を二分する様に、甲突川が流れています。あまり大きな川ではなく、河口近くでも30m程の幅で、晴天が続くと水深も20〜30cm位になってしまいます。 たいした川ではないのですが、市街地中心地を東西に流れているため、南北を結ぶ幹線道路の…

日経新聞を読んで4

話は95年後に飛ぶ。 1985年にイラン・イラク戦争が勃発した。イラクのフセイン大統領は48時間後からイランの上空を飛ぶすべての航空機に無差別攻撃を加える事を宣言した。直後から、イランのテヘラン空港はパニックに陥った。 色々な国からイランに来ていた…

日経新聞を読んで3

樫野の住民らは、この69人の外国人達に非常に献身的であった。寺と学校を仮の病院として自分達で出来るかぎりの応急処置を施した。村中から食料を集め、自分達の食べる量を減らして迄、彼らに分け与えた。浜辺や海上に漂っていた遺体は、見つけられたものは…

日経新聞を読んで2

ビョウー・ビョウーと風の音とともに、よこなぐりの激しい雨が窓を叩きつけている。ここは紀伊大島の樫野崎灯台。燈台守はさっきから、何か言い知れぬ不吉なものを感じていた。 灯台の下は岩礁が広がり、はるか沖合いまで遠浅の海岸線が続いている。「こんな…

今朝の日経新聞12面を読んで。

今朝、日経新聞を読んでいたらトルコ航空の大きな広告が載っていました。 それを見て、数年前にどなたかのwebで拝見し、とても感動したトルコと日本にまつわる感動的な話を思い出しましたので、まだ知らない方々のためにご紹介させていただきます。この話は…

西郷隆盛と大久保利通

鹿児島では「西郷好きの大久保嫌い」とよく言われます。これは西南戦争が終わり、西郷が死んだ直後から現在に至るまで、一貫として鹿児島の人間のほとんどが持っている感情です。西郷と大久保の生家は直線距離で100m程しか離れておらず、年齢も西郷が3歳年…

宝暦治水工事と戊辰戦争後の庄内藩との関係

宝暦治水工事と同じようなことが旧庄内藩、現在の鶴岡市との間でも言えます。 江戸城の無血開城の後、西日本の各藩はほとんど官軍に投降しましたが、関東以北には 徳川譜代の御親藩が多く、投降の呼びかけにも応えずに徹底抗戦の構えをくずしませんでした。…

宝暦治水工事と戊辰戦争後の庄内藩との関係

岐阜県の大垣市と山形県の鶴岡市から毎年、時期は違うがそれぞれ市長さんをはじめ商工会の方々等が鹿児島市に来られます。 宝暦治水工事とは、宝暦3年9代将軍家重の時代に幕府から木曽川、揖斐川、長良川の3河川が合流する地域のお手伝い普請を命じられまし…

幕末まで続いた薩摩武士の性質

徳川幕府が成立すると、戦に明け暮れていた薩摩武士もようやく平穏な暮らしが出来るようになりました。しかし、武の国薩摩では常に戦える準備を怠れませんでした。 他藩との境には関所を設け、少しでも幕府の隠密の疑いのある者は、密かに山中に連れて行きた…