宝暦治水工事と戊辰戦争後の庄内藩との関係

岐阜県大垣市山形県鶴岡市から毎年、時期は違うがそれぞれ市長さんをはじめ商工会の方々等が鹿児島市に来られます。
宝暦治水工事とは、宝暦3年9代将軍家重の時代に幕府から木曽川揖斐川長良川の3河川が合流する地域のお手伝い普請を命じられました。これらの地は、いわゆる天井川で梅雨の時期ともなれば、毎年のようにおきる水害で地元住民は苦しめられていました。薩摩藩は家老の平田靭負を総奉行(現場の責任者)とする藩士1.000名程が現地に向いました。薩摩藩は当時財政が非常にひっぱくしておりましたが、この幕命による工事にかかる費用も大阪等の大商人らに頭を下げて何とか調達したのです。
幕府からは目付けという名目で責任者を差し向けられましたが、人足の頭目らと結託して
賃上げを要求させたり、ストライキをさせたりいわば薩摩いじめに終始したのです。
人足が集まらないなかで、薩摩藩士達は自ら土木工事に参加し、泥まみれになりながら必死で働きました。途中で何回も工事中の箇所を大雨で流されたりしながらも、2年ちかくの期間を掛けた末ようやく完成にこぎつけました。
この工事期間中に現地で亡くなった薩摩藩士は94名、内61名が切腹により自ら命を絶ちました。幕府の役人からのいやがらせ、自分の担当現場の工事が遅れているなど、理由は様々でしたが、このように実に簡単に腹を切れる武士の集団も薩摩以外には居なかったでしょう。武士としてのプライドを傷つけられたり、部下の不始末の責任をとるために自ら切腹して命を絶つのは武士として当然と言う考え方がこの時代でも残っていたのは薩摩武士だけでしょう。武士である以上、「不始末をしたら切腹して責任をとるのが当然だ。」「戦になれば一番に相手陣営に切り込み、死ぬことなどあたりまえだ」という鎌倉幕府
以来の考え方は代々踏襲され、明治維新戊辰戦争まで続きました。
話をもとに戻しますが、薩摩藩が完成させた治水工事によって、今の岐阜県大垣市一帯は水害もほとんど無くなり、一大穀倉地帯に生まれ変わりました。その事は地域の方々に
代々語りつがれ、鹿児島市にある「薩摩義士顕彰碑」に花を手向けに、今でも毎年現地からこられます。逆に鹿児島県民はこの話を知らない人がたくさんいます。
これはたぶんに「武士は手絡をたててもむやみに人に自慢するものではない」と言う薩摩武士のダンディズムと、幕府の命令によって行った工事だから何ら自慢するような事ではない。とする考え方が根底に有る為に口伝により子孫に語り継ぐと言うことが無かったからでしょう。
ちなみにこの難工事の総責任者であった平田靭負は、工事の完成を見届け、当初の見積もり額を大きく越えた費用の責任をとって、現地で切腹して果てました。
現在も現地には薩摩義士達が命がけで作った堤防が一部残っており、遠い故郷から取り寄せて植えた松が青々と茂り、千本松原と呼ばれているそうです。平田靭負の銅像もあるのですが、写真を撮ってきていないので西郷隆盛のものをアップします。