宝暦治水工事と戊辰戦争後の庄内藩との関係

宝暦治水工事と同じようなことが旧庄内藩、現在の鶴岡市との間でも言えます。
江戸城無血開城の後、西日本の各藩はほとんど官軍に投降しましたが、関東以北には
徳川譜代の御親藩が多く、投降の呼びかけにも応えずに徹底抗戦の構えをくずしませんでした。西郷隆盛を最高指揮官とする、薩・長・土・肥の連合軍は圧倒的な兵力をもってこれらの藩を一つずつ平定していきました。いわゆる戊辰戦争と呼ばれている戦いです。
庄内藩も最初は戦いの表明をし、藩内の数ヶ所で官軍と小競り合いをしましたが、いよいよ官軍の軍勢が城下を包囲した時、藩主 酒井忠篤は使者を通じて降伏の意思を伝えました。当時の常識では、全面降伏するということは藩主及びその一族や藩の重役は死罪、お家とりつぶしになってもおかしくない状況でしたが、西郷の命令によりほとんどお咎め無しでありました。明治の世になり、西郷が東京の太政官を辞めて薩摩に帰った後、旧庄内藩は聡明な少年を2〜3名ずつ選び薩摩に留学させ、西郷が話したことはすべて記録させました。それをまとめた「南州翁遺訓」という書物が庄内に残っており、青少年の教育に使われてまいりました。
この話も鹿児島では一部の歴史好きの方以外にはほとんど知られておりません。
受けた恩は忘れないが、こちらがしたことで相手が感謝しても、それを自慢たらしくいつまでも吹聴しない。ここにも薩摩人の特性がうかがえます。写真は南州神社にある旧庄内藩士2名の墓です。明治10年、西郷がとうとう祀り上げられ西南の役が始まりました。その時庄内藩から留学に来ていた2名は西郷から庄内へ帰るように何度も諭されましたが自らの意思で従軍し、戦死しました。]