西郷隆盛と大久保利通

鹿児島では「西郷好きの大久保嫌い」とよく言われます。これは西南戦争が終わり、西郷が死んだ直後から現在に至るまで、一貫として鹿児島の人間のほとんどが持っている感情です。西郷と大久保の生家は直線距離で100m程しか離れておらず、年齢も西郷が3歳年上に過ぎません。当然、薩摩独自の郷中教育も同じグループで、兄弟のようにして育ちました。共に斉彬公に見出され、戊辰戦争に従軍して明治維新を成し遂げました。
戦後2人は東京で、当時の最高意思決定機関太政官政府で最高位の参議という重い職に付きますが、願い出た征韓論がもみつぶされた西郷は失望し、故郷薩摩へ帰ってしまいます。二人だけのときには吉之助さぁ、一蔵さぁとお互い幼名で呼び合うほど強い絆で結ばれた二人でしたが、西南戦争では敵味方に分かれてしまいました。
大久保は非常に責任感の強い人で、今から日本という国を西欧に学びながら作っていこうとする中で、西郷のように何もかも投げ出して故郷へ帰ることなど、出来るはずもありませんでした。西南戦争がおこるまで、唯1人の陸軍大将という肩書きはとかず、給与を送り続けたのも大久保の命による事でした。東京で「西郷死す」の電文を受けた時一言「そうか」と言うと自室に入り、すすり泣く声が廊下まで聞こえたと言われます。その大久保も西郷の死からわずか一年後、志し半ばで暗殺されました。死んでなお故郷薩摩に帰れず東京の青山墓地に眠っています。