日経新聞を読んで4

話は95年後に飛ぶ。
1985年にイラン・イラク戦争が勃発した。イラクフセイン大統領は48時間後からイランの上空を飛ぶすべての航空機に無差別攻撃を加える事を宣言した。直後から、イランのテヘラン空港はパニックに陥った。
色々な国からイランに来ていた駐在員とその家族、大使館関係者が空港内にあふれ、次々と飛来する自国の救援機に乗り込みイランから脱出して行った。時間が経つにつれ、空港内にあれだけ溢れていた人々が居なくなり、215人がけがとり残された。全員が日本人の商社駐在員やその家族、大使館員らである。
同時刻、日本政府も頭を痛めていた。当時はまだ自衛隊の海外派遣に対する法整備が出来ておらず、自衛隊機を救援に行かす事は出来ない。
日本航空全日空の民間2社に救援を打診したが、「自社の職員の安全が保証されない状況では応じられない。」と断られた。他国の政府や民間航空会社にも救助を要請し続けたが、「あまりにもリスクが高い」という理由で応じてくれるところはなかった。
フセイン大統領の宣言した時間が次第に迫って来る。テヘラン空港にとり残された215人の日本人達の間にも次第に絶望感が拡まっていた。
その時、轟音を響かせながら2機の旅客機が空港に舞い降りた。明らかに日本の航空機ではない。自分達を助けに来てくれたのか半信半疑で見ていた日本人達は、その民間機から降りてきた職員らの誘導で2機に分乗し、イランを離れ日本への帰途につく事ができた。48時間のタイムリミットの僅か1時間前のことだった。2機の航空機はトルコ航空のものであった。
後にマスコミからのインタビューの際、「あんなに危険な状況の中でなぜ日本人を救出する航空機を派遣したのか」と質問されたトルコ政府の高官が答えた言葉が残っている。
「我々トルコ人は、95年前のエルトゥールル号遭難事故の際、日本の人々がして下さった献身的な救助活動に対する感謝の気持ちを今でも忘れていません。イランを脱出できずに困っている日本の方々が居ると聞き、少しでも恩返しになればとの思いで、救援機を差し向けたのです。」
ちなみに、トルコでは何十年も前から小学校の高学年になるとエルトゥールル号遭難事件の事を習う。その為にほとんどのトルコ人はこの事故のことを知っていて、親日的な人が多いという。