日経新聞を読んで3

樫野の住民らは、この69人の外国人達に非常に献身的であった。寺と学校を仮の病院として自分達で出来るかぎりの応急処置を施した。村中から食料を集め、自分達の食べる量を減らして迄、彼らに分け与えた。浜辺や海上に漂っていた遺体は、見つけられたものはすべて集め、丁寧に弔った。その数、行方不明のものまでいれると587名にものぼった。
村長からの報告が政府に届き、約10日後に彼らは設備の整った神戸の病院へと移送された。ほぼ時を同じくして、明治天皇のもとにも報告がなされ、天皇は「出来るかぎりの援助をせよ」との命令を発せられその事が全国の新聞に載った為に、日本中から義援金、弔慰金として送られてきた。
彼らは当時のオスマントルコ帝国の軍人達であった。親善使節団として6月7日にエルトゥールル号という名の木造フリゲート艦で横浜に入港し、天皇への親書を奉呈したのち3ヵ月にわたりあちこちで親交を深めて事故の前日9月15日に横浜港を出航、帰途の旅についたばかりであった。生存者の話によると、樫野崎沖を航行中嵐に巻き込まれ、強風のあおられて船が座礁した。直後に蒸気機関が水蒸気爆発を起こし、船体はばらばらに飛散したという。
生き残った69人のトルコ人達は怪我の回復を待ち、日本帝国海軍の二艘の軍艦に分乗して10月5日に出航して翌年1月2日にイスタンブールまで無事に送り届けられた。日本中から送られた見舞金・弔慰金と共に。