篤姫にも負けない、薩摩女性の鏡といわれた乃木静子

・・・・身を殺して仁をなす・・・・将軍の妻として、軍人の妻として・・・

戦争にいく夫にお守り札を持たせようとしましたが、「ばかばかしい」と相手にされなかったので、密かに夫のズボンの縫い目にお守り札を縫いこんだという、微笑ましいエピソードが残っています。
静子は薩摩藩士・湯地定之の四女(第七子)で、幼名を「お七」といい、20歳の時、乃木希典(まれすけ)に嫁ぎました。後に日清戦争の勝敗を決定づけた203高地の戦いの指揮官として名を残した乃木は、長州の出身で、西南戦争にも官軍の連隊長として参戦しました。静子は女学校時代から「湯地の娘が男なりせば」と嘆賞されたほどの才女で、貞淑温順にして、きわめて質素、勤勉だったといわれます。明治36年、日露戦争で二人の息子を失った時も、大将の妻として御国の役に立てたことを喜ぶという立場から、悲しみを胸中深く閉じ込めて、涙一つ見せなかったほどの烈女でありました。乃木希典が世界的な人格者といわれるのは、この静子の内助の功のおかげと言っても過言ではありません。

1912年(大正元年)9月13日、明治天皇のあとを慕って、乃木将軍とともに自刃しました。

辞世 出ましては かへります日の なしときく 今日の御幸に あゆぞ悲しき