近代化を進める薩摩藩、異彩放った洋館

−−−−洋式紡績所の英人技師7人の居館−−−−
「西洋の進んだ文化や技術を積極的に学ぶべし」薩英戦争の洗礼を受けた薩摩藩は、1865年(慶応元)国禁を侵して使節と留学生19人をイギリスに派遣しました。この時、引率した新納久修(ひさのぶ)・五代友厚らには、もう一つの重要な任務が託されていました。
最後の藩主・島津忠義は先代・斉彬の意志を継いで、近代的な紡績工場の建設を計画しました。五代らはイギリスの工業地帯むを回り、梳綿機(そめんき)10台、精紡機6台を買い付け、技師7人を招くことに成功しました。
1866年(慶応2)11月、まず始めに司長のイ=ホーム一行4人が到着。翌年の正月には工務長ジョン=テットロウ、ついて技師2人が加わり、工場の完成に先駆けて白ペンキ塗り木造2階建の宿舎が完成しました。異人館と呼ばれた、この技師居館は、日本最初の洋式紡績工場とともに、先進地・薩摩のシンボルとして存在しました。その後、一時、鶴丸城跡に移され、七高造士館本館として使用されましたが、再び、元の位置に戻され、現在は国の重要文化財として保存されています。
しかし、こんな建物があるのに、鹿児島市内の人でさえほとんど見学した事は無いと思います。私もその存在と、車で側を何百回も通りましたが、ゆっくり見学したのは初めてでした。しかし、今更ながら、薩摩が開かれた藩だったことと、薩英戦争を経験したことは、鹿児島のみならず日本の近代化を急がせるという意味でも大きなことだったのだと改めて思い知りました。