島津・加治木氏、加治木護国神社由緒地

島津義弘がこの地を城地に選び、帖佐、平松から移り住んだのは、慶長12年(1607年)のことです。この城は高い石垣や天守閣を持たず、居形造りの建物群で構成されていました。空堀や城壁をめぐらし城域を区画し、家臣の屋敷を周辺に配置し、整然とした縄張りで現在の街形態の原形がこの時造られました。城中には「東の丸」「中の丸」「西の丸」の御殿があり、「東の丸」は現在の高校の敷地で義弘の居館といわれています。義弘が没すると家久(18代藩主)がここに住むことになり、別館を新たに今の小学校側に築造し、これを「西の丸」(中納言様御殿)と呼びました。
御対面所は、加治木島津9代、島津久長安政年間に居宅として建てた茅葺き書院造りの建物でした。明治になってから第7郷校、仮県庁、郡役所、町役場として使用され、昭和20年戦災で焼失しました。
しかし、島津義弘という人はすごいですね!先日、重富氏の平松城を造ったとお伝えしましたが、まさに島津家にとって中興の祖、この人無くしてその後の島津家の隆盛はなかったでしょう。