越前(重富)島津家墓地と紹隆寺を訪れて

以前、平松城を紹介しましたが、今日は重富家の重要な墓地などご覧ください。
越前島津家は、越前の国(現在の福井県)の守護代であった忠綱(ただつな)(島津家初代・忠久の次男)を祖とする鎌倉時代の名家でした。しかし、戦国時代(16世紀中頃)に第15代忠長が播磨(はりま)の国(現在の兵庫県姫路市)朝日山の戦いにおいて、戦死したため、越前島津家は絶えてしまいました。それから、約200年後の元文2(1737年)藩主・継豊(つぐとよ)の弟・忠紀によって再興され、忠紀が第16代となりました。
元文3年、忠紀には当時帖佐郷であった、脇元村・平松村・船津村・春花村・吉田郷、触田村(東佐多浦村の一部)の5ヶ村が領地として与えられ、翌年、郷名は「重富」と名づけられました。
ここには、もと越前島津家の菩提寺であった、紹隆寺が建立されていましたが、明治初年の廃仏毀釈によって壊され、今は墓地のみが残っています。この墓地には、越前島津家16代から第23代までの当主とその家族(33基)が祀られています。重富家が島津家の分家とは知っていましたが、福井県の越前とのつながりがあったとは、思っても見ませんでした、地域の人に、早い朝の時間に永平寺と同じ座禅を行っていると、聞いていましたが、なぜかと思っていました。永平寺とのつながり、越前とのつながりが今も続いていました。