重富氏・島津久光も住んだ平松城跡を訪れて

戦国時代の天文23年(1554年)岩剣(いわつるぎ)合戦と呼ばれた島津氏と蒲生・祁答院方との激しい攻防は、岩剣城(右手の急俊な山)の落城によって終止符を打ちました。この合戦で初陣を飾った島津義弘は、岩剣城に在番することになりました。しかしながら、山頂から麓までの道は大変、険しく日常生活には不便でしたので、麓のこの地へ館を築きます。これが、平松城です。
義弘は慶長5年(1600年)の「関ヶ原の合戦」直後にも、しばらく在城し、慶長10年から翌年にかけて帖佐から、この城に帰り、加治木へ移るまでの居館としました。その後、当城には、島津義弘の夫人や娘の御屋地様が晩年を過ごしています。
江戸時代、中頃の元文2年(1737年)藩主・島津継豊は、弟の忠紀に鎌倉時代以来の名家である、越前島津氏を再興させました。翌年には、帖佐郷から脇元村・平松村・船津村・春花村・触田村(吉田郷)を割いて「重富郷」と名づけます。これ以後、平松城は越前(重富)島津家の領主の館となり、一世には麓と呼ばれる家臣団の屋敷跡が計画的に整備されています。
天明の頃、城内には、藩内初期の学校である振業館(しんぎょうかん)が建てられました。幕末維新に活躍する島津久光(斉彬の弟)も、若い頃、越前家20代当主としてこの平松城に住んでいました。
明治維新後、この地には、重富村の役所や学校が置かれました。今は小学校となった、正面の石垣は、野面積み(のづらづみ)と呼ばれる古い積み方です。体育館のある北東の土地は、城にとっての鬼門でしたが、昔は石垣が南へ折れて一段低く積まれていました。また、石段前面の広い道は「館の馬場」と呼ばれ、幅11メートル、長さ約275メートルもあります。
こんなところにも薩摩藩の歴史が眠っています。