以前1回触れましたが、維新の志士から大阪の経済界を作った人

みなさん、今日は少し違った観点から明治維新を迎えた人が、この鹿児島にもいた事を書こうと思います。
篤姫や西郷・大久保らと時は同じころ、幕末の激動期に最も早くから世界の進歩に目を向けていた薩摩人が居ました。五代友厚です。
1835年(天保6年)儒学者の次男として、鹿児島市長田町の城ヶ谷に生まれた五代は才助といった少年時代から、世界地図の模写や地球儀の制作で海外への関心を高めました。
1857年(安政4年)長崎に留学。1862年(文久2年)には藩命で幕府の千歳丸に同乗。上海に渡り、ドイツ汽船を購入して船長になりました。
薩英戦争では捕虜となり、一時、裏切り者の嫌疑(けんぎ)がかかり、潜伏(せんぷく)しましたが、帰藩が許されると、開国による富国強兵策を進言。帰国後は御小納戸(こなんど)奉行になり、海軍に従事、長崎に日本発のドッグを建設しました。明治維新の活躍で、新政府では参与に任命されましたが、後に官を辞して実業家に転身。

1878年(明治11年)株式取引所と商法会議所を設立し、自ら会頭に就任して勢力的に商都・大阪の発展に尽くしました。
1885年(明治18年)病気のため49歳の生涯を閉じました。
大阪の経済界発展の基礎を築いた彼は、阿部野墓地に葬られています。
世の中のほとんどの士族が、まだ武士としての己を捨てきれずに生きているとき、彼の目はすでに、大阪は海に面して、しかも川があることに目を付け、 この地を東京に匹敵する程の、一大商業圏にしようと考えていた人間がいて、しかもそれが薩摩人だった事は驚きです。武の国薩摩にもそんな人がいたんですねぇ。