篤姫・島津今和泉家近くの砲術館跡

篤姫の育った本家の横、大龍寺前に当たるところに、第27代島津斉興が将来の重点課題とした「海防と武備」の中の洋式砲術の訓練所のあとがあります。
アメリカのモリソン号が山川沖に来航した1837年(天保8)を機に斉興は洋式砲術の採用をきめました。翌年、鳥居平八、平七兄弟を長崎に派遣して、高島秋帆(しゅうはん)の洋式砲術を学ばせました。そして、1847年(弘化4)8月、砲術館をこの地に開き、平七(改名して成田右衛門)を師範役としました。1848年(弘化5)9月、吉野町で、砲術の訓練を始めました。同時に砲台の建設も始め、大砲醸造や小銃を造る場所は、上町築地(現在の浜町)の弁天社のかたわらに建設しました。第28代、斉彬も積極的に洋式砲術を取り入れ、力を注ぎました。1846年(弘化3)8月、谷山の中塩屋(現在の射場山)で、成田正右衛門が師範役として砲術の訓練を実施した時の「問答所」も残されています。1854年(安政元)1月5日、洋式騎兵を創設し、17日には吉野原で砲術の大訓練を実施しました。また、同年12月12日に、洋式軍艦が完成し、昇平丸と命名しています。大砲は磯の集成館で造り、海岸の砲台も整えました。1858年(安政5)7月8日、天保山においての砲術の大訓練が最後となりました。写真は今泉島津家跡から見える南州神社です。