島津家今和泉本邸跡近くの大龍寺

戦国時代、田布施(鹿児島県金峰町)にいた、島津家15代貴久は跡目争いで、薩州島津家実久を敗り、この場所に内城を築き、移り住みました。
以来、50年、内城は島津氏の本城として、城下町の中心でしたが、18代家久の時、鶴丸城が築かれ廃城となりました。その跡に建立されたのが、端雲山大龍寺です。臨済宗に属し、寺号は内城を居城とした貴久・義久のそれぞれの号「大中」と「龍伯」に因んでつけられました。開視には、南浦文之(なんぽぶんし)が招かれ朱子学をわが国にもたらした桂奉玄樹の学問を伝える儒僧として、その教えを広めました。文之和尚は、1555年・日向(宮崎県)飫肥に生まれ、文珠童とよばれるほどの才児で、龍源寺の一翁玄心によって、桂庵の教えに触れました。
著作の中に、南浦文集に収められた「鉄砲記」は、わが国への鉄砲伝来を知る貴重な資料です。また、文之和尚は、義久・義弘・家久の三代に使えた政治顧問としても、有名で、琉球政策などに手腕を発揮し、黒衣の外交官といわれました。1620年死去、鹿児島県加治木町の安国寺に祭られています。
この、大龍寺は篤姫の生まれたすぐ横にあり、現在は小学校になっています。