薩摩の財政を支えた、奄美諸島の人々

幕末、莫大な額に膨れあがった薩摩の借金を立て直した功労者として、調所広郷の名が残っています。彼がおこなった改革によって、薩摩藩は莫大な赤字を黒字にまで転換することに成功しました。たとえそれが大阪辺りの豪商を脅し、借金の返済を250年分割と認めさせるという方法であったとしても(笑)。しかし、その一方では、薩摩の下級武士や農民は過酷な生活を余技なくされていました。中でも、鹿児島の島々の人たちの、生活はたいへんなものでした。奄美大島でも、また近くの諸島でも、サトウキビは全て、自分たちの口には入らず、主食としては、ソテツの実を毒抜きして、乾燥させたものを、他の食料とおかゆのようにして食べていました。現在、有名になった鶏飯(けいはん)は、自分たちの食料にしたのではなく、船酔いなどで食欲を失った、薩摩の役人のために考えられた食べ物でした。このように、鹿児島の農民以上に奄美諸島の人たちは、苦労の日々が続いたのです。篤姫の嫁入りなどでも、多大な費用が費やされていますが、海の向うに薩摩藩をささえた人達がいたことを忘れてはなりません。奄美のエメラルドグリーンの海は世界一美しい海だと思います。