薩摩藩の軍艦には、マストに日の丸・船尾に十文字

−−−−日本最初の軍艦は薩摩で誕生しました。−−−−−
斉彬公が、磯の集成館一帯に築いた様々な近代化事業のひとつに造船所がありました。南北100m幅20m深さ3m掘り下げて東側から海水を入れる、という構造をもった造船所がこの場所(磯・集成館の前方・海水浴場手前)にあったのです。
幕末の英明藩主・島津斉彬公は同じ島国のイギリスにならい、艦船を備え、海軍をつくり、薩摩を日本一の強い藩にしようと考えていました。イギリスやフランスの艦船が、毎年のように琉球にあらわれ通商を要求するようになったからでした。英国やアメリカの船がマストに国旗を付けているのに学び、日本国の船だと一目で解るように斉彬公自ら考案したのが、後に国旗となった日の丸でした。
ここで、1854年(安政元)に洋式帆船「伊呂波丸」を完成させました。また、桜島瀬戸村に新設された造船所では、大砲船として改造された「昇平丸」が進水しました。いずれも、日本最初の快挙で、昇平丸はマストに日の丸を翻し江戸に回航将軍家定を初め諸侯幕閣を驚かせました。幕府の求めに応じて献上され、この昇平丸(昌平丸)に乗り込んだのが勝海舟です。しかし、その3年後に斉彬公は急死、意志をついだ忠義が外国船を大量に購入し、薩摩は洋式船の数で、日本一を誇りました。
「造船所跡」の碑をみて、のちに東郷平八郎が日本を背負う海軍を作り、ロシアのバルチック艦隊を破った事にも繋がりを感じました。また、五代友厚なども薩英戦争で敵の船に興味を示し、その後大阪の実業界で活躍しました。斉彬公のグローバルな考えは西郷・大久保のみならず、多数の優秀な人間を育てたことがよく解った気がします。