南州翁の最後「命もいらず名もいらず」

−信義を貫いた巨星と群れ星ここに眠る−
1877年(明治10年)9月24日、城山で西郷隆盛が自刃して、ついに7ヶ月にわたった西南戦争が終わりました。熊本城の攻防、田原坂の激戦に破れた薩摩は多くの死傷者をだしながら、九州を南下して、故郷の城山を最後の決戦の場に選んだのです。
城山に防塁を築き、官軍を迎え撃つ薩軍はこの時すでに300名程になっていました。相手にする官軍は、船で錦江湾に上陸した主力を含め40.000名とも言われております。弾薬や食料も底をつき、西郷はついに決断します。
他藩からの参加者や薩摩人でも若い者達には、「おはんらには、この日本という国を背負っていく責任がある。無駄死にはしやんな!」と諭し、泣きじゃくる若者達を投降させました。
残ったのは40名足らずです。この40名は桐野利明を筆頭に、常に西郷と共に
戊辰戦争から戦ってきた同士であり、西郷も何も言いませんでした。言ってもきかないことが判っていたからです。
「どら、いきもんそかい。」この一言で充分でした。夜明けを待って5日間過ごした洞窟を出て、40.000名の官軍に向かい死の行軍を開始しました。桐野利秋別府晋介村田新八・池上四郎といった、私学校の幹部たちも一緒です。この日の西郷の出で立ちは、妻のイトがぬった縞(しま)の単衣(ひとえ)に白い兵児帯(へこおび)でした。ゆっくりと岩崎谷を下ります。次々と周りの者が銃弾に倒れるなか、ついに流弾が西郷の腰に命中。別府の介錯をあおいで49歳の生涯を閉じました。