今も引き継がれる薩摩の伝統行事。

鹿児島には「妙円寺参り」という伝統行事があります。
関ヶ原の戦いに参戦し、西軍敗れたりと見るや、敵に背を向け逃げるは武士の道にあらず。と、東軍がひしめくど真ん中に突撃しながら突破して命からがら薩摩に帰ってきた、島津家代17代当主義弘公は、少年〜青年期を過ごした伊集院の妙円寺を自らの菩提寺と定め、公が85歳で天寿を全うすると、その地に墓所が建てられました。
それからどのぐらい経ってからでしょう。鹿児島に住む城下士達は関ヶ原の戦いの火蓋が切られた前日、旧暦の9月14日の夜に伊集院の妙円寺に詣で、夜が明ける前に鹿児島城下まで戻り、なにくわぬ顔で普段通りに仕事をしたといいます。義弘公の苦難を思えば、何の事も無い。という薩摩武士の心意気だったのでしょう。大久保利通の青年時代の日記に「妙円寺参りに初めて参加し、感動した」という記載もあるそうです。
それにしても鹿児島市中心部から伊集院の妙円寺まで30キロ以上はあるでしょう。夜のうちに往復するのは大変なことだったでしょう。
今も小学生や保存会の方々が毎年続けられておられますが、さすがに往路は歩きで復路はバスです。それでもかなりきついことです。
妙円寺明治2年の廃仏希釈令で廃寺になり、代わりに徳重神社が建てられました。義弘公は豪放でありながら義に厚い方で、藩士達からもとても慕われていたといわれます。薩摩藩でも当時、殉死禁止令が出ていたにも関らず、13名もの藩士が義弘公の後を追い、殉死されました。
徳重神社の境内に13基の供養塔が並んでおり、殉死された方々の名前がそれぞれに刻まれています。