西郷隆盛に命を捧げた男

桐野利秋と名を改めるまでは、中村半次郎と名乗っていました。
前回紹介した生家は、今でこそ鹿児島市に組み込まれ、市の中心部まで車で15分程の場所にあります。しかし当時は吉野村の実方(さねかた)という小さい集落で、武士とは名ばかりの最下層の郷士でした。彼らの生活は百姓とかわらず、毎日の畑仕事の合間に郷中教育という薩摩藩独特の制度のもとで剣の修練や読み書き、武士としての心構え等を身につけていったのです。当時、日本中には様々な流儀の剣法があふれており、武士の子弟達はいずれかの道場に通い剣の腕を磨く事があたりまえの事でした。薩摩藩でもそれは同じでしたが、城下に道場は少なく、上級武士の子弟のみが通える所で、郷士身分の子弟は郷中教育のなかで年長者から教えられていました。薩摩の剣の流派は「示現流」一つのみで、基本さえ教えてもらえば後はそれぞれが自宅で修練する事ができたのです。
西郷、大久保らとともに当時の藩主斉彬に見出され、京都での宮中対策、江戸城開城戊辰戦争と、常に西郷の側におり後の悲劇的な西南の役で西郷と一緒に38歳で散って逝きました。
若い頃から剣の腕は薩摩藩でも一番強いと、認められており京都での討幕活動中に、新撰組や見回り組といった幕府方の組織の者達を何人も暗殺したため、幕府方の連中からは「人斬り半次郎」と呼ばれ、恐れられていました。写真は西郷隆盛を中心に、西南の役で死んでいった人々の墓が並ぶ南州墓地。
死してなお西郷を守らんとするように中心の西郷の墓の向って左隣に彼は眠っています。