指宿からも特攻隊員たちは出撃してゆきました。沖縄の空へ。

指宿市国民休暇村に隣接する松林の中に、海を望める小高い丘があり、階段を登りきると慰霊碑と観音菩薩像が建立されています。
太平洋戦争末期、昭和19年にこの地に海軍の基地が設けられ、終戦までの間に八十数名の若者達が特攻隊員として出撃して逝きました。また、米軍機の攻撃により、この基地の軍人や民間人百数十名も亡くなりました。
その方々を慰霊する為に、生き残った元隊員の方々や地元の方々の浄財を集めて建立された物です。
しかし驚かされるのは、この基地には滑走路が無かったということです。
なぜならば、ここから出撃して行った航空機は、すべて飛行艇だったからです。飛行艇とは、大型戦艦の船尾に載せられ、主に偵察、索敵が任務でした。また、エンジン4基搭載した大型飛行艇は、滑走路の無い島への兵員輸送等に使われていました。戦闘機ではないので、速度も遅く、運動性能なども戦闘機の足元にも及ばないそんな飛行艇までかき集めて、日本軍の特攻作戦は終戦まで続けられたのです。陸上の基地から出撃された方々は、地元の住民達や、女学生達から手を振って見送ってもらえもしましたが、海上飛行艇から出撃した彼らは誰からも見送られる事も無い、寂しい出撃だったと言われいます。