人を持って城となす。

源頼朝から薩摩・大隈・日向3国の守護職を命じられ、現地に赴任した島津家ですが、来て見てビックリ!って感じだったでしょう。当時の薩摩。大隈は有力な豪族達(入来院氏・伊集院氏・蒲生氏・肝付氏等)が群雄割拠し、鎌倉幕府から任じられた新参者の島津氏の言う事など聞く者はだれもいませんでした。それゆえに島津氏の歴史は戦いの歴史でした。ようやく薩摩を平定したのが1570年、大隈が1574年、日向で伊東氏に勝利し、悲願だった3国統一が成されたのは16代当主義久の時でした。じつに300年以上、各地を転戦しながら力で勝ち取った藩主の座です。このような歴史を持つ島津家ですから、戦国大名達のように天守閣の付いた立派な城を築き、そこを戦の時の拠点にするという考えは全く有りませんでした。日本中のどの大名家よりも実戦の経験が豊富な島津家は江戸期においても、藩主の住む城は築きましたが、天守もない至って質素な平屋造りで石垣も堀も飾り程度のものです。他からの侵略にこの城に篭って敵を迎え撃つなどという考えは微塵もありませんでした。
島津氏が多くの実戦で学んだ事は、国境や街道筋の主要な土地に外城と名づけた武士集団を住まわせ、本拠地に来る前に撃退する。また、敵の勢力が強ければ本城などは打ち捨て、敵軍の元へかけつける。その様な他の藩にはあまり見られない制度を築いていました。鹿児島の武家屋敷郡といえば知覧が有名ですが、出水・蒲生・加世田など当時の様子を残した武家屋敷郡はたくさんあります。薩摩・大隈・日向3国で100以上の外城があったといわれています。