悲劇の僧 俊寛

先日、鹿児島市の繁華街にある御着屋(おつきや)交番の近くをあるいていたら、建物の間になにやら石碑と説明の看板があったので覗いて見ると、俊寛僧都 船出の地であることが書かれていました。
鹿児島市は、平地が少なく、江戸時代以前から海を埋め立ててきましたが、石碑の場所から海まで今では2キロは離れています。先ほどの交番名「御着屋」もこの地がかつて船着場だったことを物語っています。
俊寛のことは歌舞伎の題目にもなって現在まで伝わっており、知っておられる方も多いとおもいますが、若干説明させていただきます。
京都の末寺の僧、俊寛の家系は下役ながらも源氏につながります。
平安末期、平家の台頭により源氏はほとんど力を失っていました。
それに不満を持つ源氏派の公家や武家達が、平家転覆を目的としたクーデター計画をたて、話し合いを重ねていました。ところがこれが平家の知るところとなり、集まっていた俊寛以下数人が捕らえられ流刑されました。流刑された島もいくつかの説がありますが、鹿児島県の硫黄島か喜界島だろうと言われています。数年おきに御赦免船が来て、罪を許された人々が帰るなか、クーデターの首謀者とされた俊寛だけは決して許されず、島で非業の死をとげました。