南薩への旅、シュミレーションNo5 副題 若くして散って逝かれた英霊たちよ安らかに。



国道226号を枕崎方面に走って行くと、旧頴娃町庁舎の近くの交差点に「知覧」と書かれているので右折して県道27号をずっと走ります。
途中で何ヶ所か十字路が有りますが、27号線を外れないようにすれば、知覧の市街地に入っていきます。その前から「知覧特攻平和会館」と書かれた標識が誘導してくれるので、それにしたがって平和会館へ向いましょう。市町村合併で今では南九州市知覧になってしまいましたが、武家屋敷と特攻基地の町として団体旅行では外せない町です。
特攻基地=知覧と認識されている方が多いと思いますが、太平洋戦争末期に、沖縄に集結したアメリカの膨大な艦船に向かい重い爆弾を抱いて出撃していかれた基地は鹿児島県内にいくつも有りました。
万世、出水、国分、串良、鹿屋等、宮崎県都城からも出撃していかれたのです。なぜ南九州だけから特攻出撃が成されたのか。理由は単純です。敗戦色が色濃くなってきたこの時期、国内に飛行機を飛ばす為の燃料は底をつきかけていました。沖縄まで機を飛ばすにはもっとも少ない燃料ですむからです。知覧から出撃された御霊は1.036名です。しかし数からいくと一番多く出撃されたのは鹿屋の基地からで2.000名を越えます。彼ら飛行機乗りは国内はおろか台湾、韓国、中国からもこの南九州の各基地に集められました。戦況の悪化に伴い、学徒動員で強制徴兵した大学生達も、僅か半年ほどの飛行訓練で特攻隊員としてこの地に集められたのです。オンボロ飛行機にぎりぎり沖縄まで飛ぶことが出来る、片道分の燃料と500キロ爆弾を腹に抱え帰る事の無い基地を飛び立って逝かれたのです。
知覧が一番有名になったのは、通称知覧の母「鳥浜トメさん」の存在が大きいでしょう。当時知覧で唯一の軍の認定をうけた富屋食堂を経営されておられました。いつ出撃命令が出るか分からないなかで、隊員達が酒を飲み騒ぐことで死の恐怖をいっときでも忘れる事ができる場所でした。遠くの県の出身者のほとんどは、肉親と最後の別れもできず出撃の日を迎えます。そんな隊員達はトメさんに母親の面影を投影していたのでしょう。
しかし、トメさんにとってはとても残酷な日々でした。毎晩のようにお店に来て、名前も憶え「おばちゃん、おばちゃん」と慕ってくれていた隊員達が毎日のように出撃していくのです。いったいどれほどの涙を流されたのか、察するに余りあります。私は決して右翼的な思想の持ち主ではありませんが、特攻という名を借りた自殺命令を心の中でどう決着をつけて出撃していかれたのか、それは当時の帝国主義国家が国の都合よく作りだした絵空事、「戦争で死んだ者は軍神という名の神となり、その御霊は永遠に靖国神社に祀られる。」という言葉だけにしがみつき、無理やり自分の心を動議付けしたのでしょう。「出撃前に別れの水盃を交わし、気丈にも笑顔で敬礼しながら飛び立っていった彼らの最後の言葉は「靖国でまた合おう」でした。政教分離がなんですか。諸外国からの圧力がどうしました。靖国神社に神として祀られるという事を無理やり自分に信じこませて死んでいった若者達の御霊を裏切ろうというのですか。何十年経とうが日本という国が存続する限り、その時々の政府は靖国を守っていく事が責任というものではないでしょうか。私は10回以上特攻平和会館を訪れていますが、今でも戦争の犠牲になり散っていかれた若者達の遺書を読んでいくと涙が止まりません。戦後日本の歴代首相や閣僚のなかに彼の地を訪れ、遺書を読まれた方はおられるのでしょうか。きちんとした歴史を認識していない人が他国からの圧力に正しく対応できるはずがありません。国会議員の皆さんも意味の無い海外視察とやらを止めて、知覧に来られるべきだと思います。